入れたはずの場面は、私のルールに存在しませんでした

先日、私が見ているのと同じ通貨の解説を他の方の投稿で見かけました。書いていたのは「ここは狙わない」という結論で、内容にも筋が通っていました。

問題は、そこから3分間の私です。

その3分のあいだ、私が見ていたのは1時間足の線の並びだけでした。

添えられていたチャートを開いて、1時間足まで下りていってこう思いました。

「たしかに、この並びなら私も入っていたかもしれない」。

そして手を止めて、上の足を開き直して気づきました。その場面は、私のルールのどこにも書かれていませんでした。 入るか入らないかで迷う手前に、そもそも入る場面として登録されていなかった。

今日は、その3分間の話をします。負けた話ではありません。1円も動かしていません。それでも、私がこの1年でいちばん危なかった3分間です。

目次

「入れたかもしれない」と思った時、私は下から見ていました

私が最初に見たのは1時間足でした。期間の違う線が上から順に、売りの側にきれいに並んでいる。パーフェクトオーダーです。押し安値も切り下がっている。教科書に載せてもいい形でした。

だから「入れたかもしれない」と思った。順番としては、これがすべての間違いです。

私はいちばん小さい足から、上に向かって考え始めていました。

上から降りてくるのと、下から見上げるのとでは同じチャートがまったく別のものに見えます。上から降りてくると、その並びは「上の流れが素直に映ったもの」に見える。下から見上げると、その並びは「入っていい合図」に見える。線は1本も違わないのに、意味だけが入れ替わります。

私のルールには、その場面が一行も書かれていません

私が取ると決めている形は、2つしかありません。

週足の流れが出ているところで日足の線と価格が一度寄り合ってから、また離れていく場面。 そして日足の流れが出ているところで、4時間足が同じことをする場面。 この2つだけです。

この日の週足は、まだ上向きの側にいました。週足の長い平均線(100週の移動平均線)の上に価格がいて、下を向く気配もない。その中で日足が下げていた。

つまりこの下げは上の流れが崩れたのではなく、上の流れの中で価格が一度戻っていただけでした。日足で線と価格が寄り合って離れたのは事実です。ただ離れた向きが、週足と逆でした。私の形は、週足と同じ向きへ離れる場面だけです。だからこれは「日足の形」ではなく「週足の押し」と呼びます。名前が違えば、扱いも違います。

私が売れる場面はどちらでもありませんでした。見送るかどうかを考える資格すら、その時の私にはなかった。

入る理由は、後からいくらでも作れます

ここが、この日いちばんぞっとしたところです。

あの3分間、私が頭に浮かべた材料はどれも本当のことでした。1時間足の並びは本当に揃っていた。価格は長い線から本当に離れていた。形も本当に整っていた。嘘は一つもありません。

それなのに、そのどれ一つとして「ここは私が入る場面か」には答えていませんでした。

材料は、探せばいつでも見つかります。相場は毎日動いているので、小さい足のどこかではたいてい何かの形が完成しています。だから小さい足から考え始めると、必ず「入れそうな気がする」に着地します。 そういう仕組みになっている。

そして厄介なことに、この作業は頭を使えば使うほど滑らかに進みます。よく勉強した人ほど、根拠を上手に組み立てられる。理屈が達者になるほど、ルールの外へきれいに出ていける。 私が長いあいだ勝てなかった理由は、これです。

だから、最初の質問を一つに固定しました

いま私が自分に投げる最初の質問は、これだけです。

「これは、私の2つの形のどちらですか」

答えが出れば、そこから先の作業に進みます。上の足の向きを確かめて、線のどちら側にいるかを見て、戻りが耐えたかを見て注文を置く場所を決める。

答えが出なければ、そこで終わりです。1時間足も開きません。波が何番目かも数えません。 数え始めた時点で、私はもう順番を飛ばしています。

この質問には、便利な副作用があります。答えられないことに、すぐ気づける。 「ええと、これは……日足の押しが……」と説明が長くなったら、それは型に当てはまっていない証拠です。当てはまっている時は、一言で終わります。

自分の言葉が長くなり始めたら手を止める。私の場合、これがいちばん再現性のあるブレーキでした。

あの3分間の要点
  • 「入れたかもしれない」と思った時、私はいちばん小さい足から上へ考え始めていた
  • 同じ並びでも、上から降りてきたものだけが私の場面
  • 材料は探せばいつでも見つかる。小さい足から考えると、必ず「入れそう」に着地する
  • 最初の質問はひとつだけ。「これは、私の2つの形のどちらですか」
  • 答えが出なければ終わり。1時間足も開かないし、波が何番目かも数えない

型に無い場面は、見送りですらありません

見送りというのは、打席に立った人の言葉です。バッターボックスに入って、来た球を見て、振らなかった。だから見送りには価値があります。

あの日の私は、打席に立ってすらいませんでした。球場が違った、という方が近い。

ここを区別できるようになってから、取り逃した気分が静かに消えました。見送った回数は記録しますが、型に無い場面はそもそも数に入りません。 あれは取れなかったのではなく、私のものではなかった。

その後、価格がどちらへ動いたかは知っています。けれど、それは私の判断の良し悪しとは関係がありません。入る資格がなかった場面で結果だけが当たっていたら、それはいちばん高くつく成功です。次に同じことをやる理由になってしまうので。

この話も、信じなくて構いません。ただ直近で「入れたのに」と思った場面を一つ開いて、上の足から順に降りてみてください。半分は、打席ですらなかったはずです。

だから、今日はこう書いて終わります。

入れたはずの場面は、ありませんでした。
あったのは、入りたかった私だけです。


次に読む

——取り逃した気分が消えるまでの話。今日の続きにあたる場所です。

——待っているものに名前が付いているか。判定としての見送りの話です。

——今日の話が、実際の一日でどう起きたかの記録です。

——入らなかった場面を全部並べると、何が見えるかという話です。

私が取ると決めている2つの形をどの足のどの線で判定して、どこに注文を置くのか。順番どおりに一冊へ置いてあります。

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本記事は私の経験と考え方の共有であり、特定の金融商品の売買を推奨・勧誘するものではありません。
投資には元本を割り込む損失のリスクがあり、最終的な判断はご自身の責任で行ってください。


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この記事を書いた人

トレードの本質を語ります。聖杯も未来を言い当てる方法もありません。あるのは相場の流れを見極め、優位性が生まれるまで待ち、間違えたら撤退するという地味な積み重ねだけです。私を信じる必要はありません。すべてご自身のチャートで確かめてください。

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